F.ジャパンの「日々是精進」

『考えている事』

教育欲と支配欲は似ているような気がする。
教育するために支配という手段は有効であるのかもしれない。
支配するために教育という手段は有効であるのかもしれない。
学校でワークショップをした後の反省を要約すると、児童生徒をうまくコントロールできなかった、ということにまとめられる事があるような気がする。
「児童生徒にうまく考えさせられなかった」
という言葉を私なりに受け止めたい。
今自分がこの言葉を使うには、私自身に何かが足りないのだろうと思う。
それが覚悟であるならば、覚悟を持つための何かが、であろう。
この「何か」をもう少し具体的な言葉にして考えたい。
今はこの「何か」の抽象度が高すぎて、考えていても一方通行で、ずっと自分だけが喋り続けているような感覚になってしまって少し寂しい。
考えている時に、その考えている対象から返事をもらうかのような感覚になる事があって、そうなると楽しい。
どっちも俯瞰的に見ると独りで悶々としている姿は同じだろうけども、自分自身の中では盛り上がり方が全然違う。
考えが一方通行の場合は捉えどころがなさすぎて眠くなってしまうし、考えるのが辛くなるのだ。

教育者が学習者に何かを与えようとするだけではなく、両者が一緒に課題(仕事)に取り組む場も大切なのではないかと私は考えております。
何かを与えようとするために一緒に課題を取り組むのではなく、課題に取り組む事自体を目的にすべき事なのではないかと私は考えております。

一方でそれが困難なのは情報量や権力性に差異がある中での対等は一方の優位性を示しやすくなり、協働を円滑に進めなくさせる要因になりやすいからだろうと思います。

教育者と学習者が対話をし、協働を進めるのは困難であろうと思います。
教育者が学習者に対して「私はあなたと異なる意見である」という事を、教育性や権力性から逃れた一意見として表明するためにはどのようにすれば良いのか。

私の場合は自分の知見やこれまでの糧から、対話を実現させる一つの方法として演劇の稽古という場に希望を持っているのです。
しかしこの「演劇の稽古の場」という言葉の解釈は一つではなく、多岐に渡り、無限に広がっていく言葉でもあります。
この誤解や、「演劇の稽古の場」という言葉を使い続ける限り埋まらない差というのもあるような気もしています。

言葉で何を表現する事も行動で表現する事も結果で表現することも難しい。


今月の私は
「子どもにアートを!」と頑張る先生を支えたい|京都市×芸術教育支援
https://readyfor.jp/projects/school1stpenguin2023
を応援しています。

『珠光の庵』の韓国公演に向けて諸々準備を進めています。
https://note.com/gekidaneisei/m/mb0c289133747

私の所属するリコモーションが立ち上げた
スクール・コミュニティ「ACTLABO OSAKA」
https://actlabo.jp/about
を見学したりしてました。