F.ジャパンの「日々是精進」

気づきをうながす

「気づきをうながす」という行為には常に「気づきを与えようとする」という行為との密着性があるのではないかと思えてきました。
そして「気づきを与えようとする」という行為と「教える」という行為を曖昧にしてしまう事に恐れを抱くようにもなってしまいました。
私は現時点で
「演じる事によって対話空間をデザインする」
ということを考えながら、プログラムを作成しているのかもしれません
「話し合う」
それ自体が目的であり、ねらいであり、到達目標にしているような気もします。
それでいいのだろうか。

「話し合いの場」を「クリエイションの場」として設定できないものかと日々悩んでいます。
演劇の空間、クリエイションの場をデザインするのが演劇講師の仕事であり、その「場所」に権力性をもってこどもに参加させるのが私の仕事にできないものかと。
例えその時間に教室の机につっぷして誰とも話さず目を合わせていなかったとしても対話は成立している、という可能性をもてるのがクリエイションの場の魅力だ思います。
強制参加させられたその場所で、しかしそこでどのようにすごし、何を学ぶかの主権は学習者にあるという原則を守りたいです。

重要なのは
「大人がこどもに対話をさせる」のではなく
「大人がこどもと対話をする」と考えています。
授業がおわった後の振り返りの場で
「子供にもっと内容項目について考えさせたかった」や「子どもが積極的だった」
というファシリテーターとしての手法の反省や気

づきや子供への評価の言葉だけにおさまらないように気をつけ、
「実社会に生きる先生以外の芸術家」として「子どもとうまく内容項目について話せなかった」や「子供との対話が盛り上がり、私も内容項目への気付きをたくさんもらえた」という主体的な言葉も増やしていきたいと考えています。

教育者(も含めた誰か)の学びの深まりこそが学習者(を含めた周囲)にも影響を与えるのかもなと最近思う事が多いです。

教育者の立ち位置の私は学習者のためにやはり何かを与えようとしたいという義務感を背負ってしまいますが、
上下の構造ではなく平らに学習者と教育者が一つの目的(クリエイション)に協働的に取り組む時間をデザインしなければといつも思います。
クリエイションの場のリスクはなるべく私が負い、学習者には先ずは安全安心な場を提供しようとするのが自分の仕事です。
集団において対立や不和は当然起こってもおかしくないものですが、実社会でも同じようにそれは重要な糧になり得るものであり、そこを安易に排除すべきでは無いのではないかと考えています。


今月の私は
「子どもにアートを!」と頑張る先生を支えたい|京都市×芸術教育支援
https://readyfor.jp/projects/school1stpenguin2023
を応援しています。

珠光の庵の韓国公演に向けて諸々準備を進めています。
https://note.com/gekidaneisei/m/mb0c289133747