【蓮行流○○道場#4「蓮行流演劇ワークショップ道場#3」】

蓮行であります。

さて、前回を踏まえていきなり受け売りですが、WSの定義として、「参加型・体験型・双方向型」である、というような事が言われます。

この定義は、私としてはなかなか秀逸だと思っています。
何が秀逸かと言うと、曖昧で広すぎて、ほとんど何も定義してない、というところが気に入っています。

WS、というのがどういうニーズから注目されて来たのかを考えてみると、やはり「教師→生徒の一方的な知識の詰め込み教育では限界だ」というところが強いと思われます。上記の「3要素」による定義は、この「教師→生徒の一方的な知識の詰め込み教育」を反転させてあります。
しかし、「参加型・体験型・双方向型」でなきゃWSではないのか、あるいは「参加型・体験型・双方向型」であればWSと言えるのか、答えはどちらも「うーん、どうでしょうなあ…?」という感じです。
とにかく、「これはそもそもこうだから」と思考が固定した瞬間から、WSはWSとしての輝きを急激に失うような気がするのです。

例えば、上記の3要素を踏まえて、音楽の授業で合唱指導を行うケースを考えてみます。歌に「参加」し、歌う事を「体験」し、なおかつ先生の歌唱指導に対して「歌う」という行為で具体的に答えるのだから「双方向」でもあると思います。
では、従来の音楽の授業に於ける合唱の指導はWSか?と言われたら、結局のところ、そうだとも言えるしそうでないとも言えると思います。

内申点が気になって、本当は歌いたくないのに表面だけ合わせている子は「参加」していないと言えるでしょうし、従来通りに教科書の楽曲を歌うなら、新しい経験はほとんどないので、「体験」していないとも言えるでしょう。
先生の指導に歌で答えるだけなら、先生は何も脅かされないので、「双方向」とも言えないと思います。

子どもから先生への何かの影響があって、先生も変わってしまう、というのを「双方向」と呼びたいわけです。ですから、それぞれが大なり小なり当事者意識を持って「参加」していて、これまでとは何か違う経験(感性や身体の)を「体験」し、先生が生徒の歌によって、何か価値観を揺さぶられたり、方法論の変更を迫られたりする良き緊張関係、つまり双方向性があれば、それは十分に「WS的である」と言って良さそうな気がします。

とかく、全体に曖昧でヌルいですが、それはテキスト化や「定義」によって失われる「暗黙情報」を惜しんでいるからです。
暗黙情報については、拙著「コミュニケーション力を引き出す」に書いていますので、よろしければご参照を。そのうちここでも触れます。

私たちは、プロの俳優として学校現場に入り込み、自分たちで出演もします。
子ども達は私たちのような異物との現場に参加し、これまでとは違う時空や、そもそも正解の存在しない「芸術」を体験し、また子どもにしか出せない素晴らしい輝きで、私たちの存在を脅かしてきます。演劇の共同創作は、そういう意味でそもそもが非常にワークショップ的なのです。