【蓮行流演劇ワークショップ道場♯1】

蓮行であります。

「教育学」は意外に歴史 が浅く、まだ始まって百年ほどしか経っていないそうです(もちろん受け売りです)。例えば「経済学」と比較すると、「経済学の祖」と称されるアダム・スミスがその主著「国富論」を出版したのが1776年(もちろんウィキペディアです)ですから、ざっと230年以上の歴史がある、と言えますから、やはり学問としては日が浅いと言えそうです。

そして、その「教育学」は、元々は「正しく答えたら褒め、間違って答えたらムチで打つ」というノウハウからスタートしました。「♪スズメの学校の先生は〜♪ムチを振り振りチイパッパ♪」とは、実は初期の教育学的知見に基づいた歌詞だった訳ですね。しかし、これはサーカスや猿回しに於ける「動物の調教」と同じやり方です。何しろスズメが学校で採用しているくらいですから。この後、教育学は「どう人間を教育するか」という命題で、発展してきたと言えるらしいです(受け売りですので)。

ここから、ようやく自分で理屈をこねますが、教育、とりわけそれを「制度」としていこうとする時には、常に「コスト」が立ちはだかります。なぜなら、人を教育する事そのものは、全く何も生産しないからです。いわゆる開発途上国で一般的に文盲率が高いのは、「読み書きなんか覚えても、畑が耕せる様にならない」あるいは「読み書き覚えるヒマがあったら、少しでも耕して食べ物を作れ」という状況や考え方があるからです。

公教育のコストを下げることは、それを税金で支える市民・国民の負担を下げることですからそこには社会的な合理性と正義と要請があったわけです。少ない教員でたくさんの生徒を教えることができ、十分な成果が上がるなら、それに越したことはない訳ですから。なので、「先生がいかに生徒に効率よく教えるか」という方法の確立・改良に、「教育学」は邁進したのだろうと思います(教育学なんてこれっぽっちも勉強していないので、推論です)。私は、 私が第2次ベビーブームのピーク時のチルドレンの1人として施された、いわゆる「詰め込み教育」について、個人的にはネガティブな考えは持っていません。すげー良かったよ、とも思いませんが。

しかし、ここに来て(いや、本当は私の子ども時代にはすでに来ていたのかも)、「先生→生徒」という従来型教育の方法に、限界が見えてきました。 次回はこの「限界」から展開して、あと数回かけて「ね、だから演劇を教育に入れるって素晴らしいでしょ!」というゴールに寄せて行きます…!