『あなたの知らない三国志の世界』
第十九回「ユニット美人の三国志とはいったい何だったのか 10」


 2012年の5月〜11月にかけて半年かけてやったユニット美人の三国志vol.0〜4。

 この連載では、せっかく半年かけて作ったんだからそのままにしておくのはもったいない。という省エネ精神から、作品について語っていこうと思います。自分で自分の作品解説なんて、どうなんだい、それなら芝居にするなよ…というようなことを書いていきますので、そういうのが嫌な人は読まない方が良いがと思います。

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その10:守ってあげたい3

 おひさしぶりです。
 気付けば岩戸山のコックピットも終わり、ユニット美人の三国志公演の終了から一年も過ぎ、「いつまでやっているんだ」「『住まなくても都』の連載はどうなった」と自分でも思わないでもないですが、気にせず頑張ってまいりたいと思います。

 かな〜り間があいてしまったので、ちょっとおさらいをしますね。

 ひょんなことから三国志の世界に紛れ込んでしまった30代の勤労女性(独身・子ども無し)・粥見(かゆみ)が主人公です。そこで、謎の声から「『この男』を救え」と言われるものの、三国志に全く詳しくない粥見はそもそも『この男』が誰かもわからない状態。
 しかし、なんやかんやあって投げやりになったりするものの、「子どものいない私だって命をかけて誰かを救える」という気持ちが芽生え、『この男』は三国志の主人公劉備(りゅうび)のアホ息子劉禅(りゅうぜん)だということに気がつき、『救う』ってのは三国志的な「血統主義」や「先代に報いる」のを良しとする世界観から救うってことだなという事に気がつき、最終的には自分より若い他人を救う為に命をなげうちます。

 そこで、話はきれいにまとまるかに思えたのですが・・・無惨に不正解のブザーは鳴り響きます。vol.0でちょこっとだけ登場した主人公粥見の弟、宏(ひろし)を客席から呼び出して、自分の代わりに井戸に落とすまで粥見の話は続くのでした。
 さて今回はいよいよラストです。「宏はなぜ死ななければならなかったのか」ということについてお話しいたします。

○単一世界の気持ち悪さ
 まず初めに私の作家としての欲がありました。vol.0で登場させた宏をもう一度出したかったのです。創作当初の計画としては、vol.0〜4まで男性キャストは1人登場させる予定だったのです。しかし、私の作家としての能力が低かったためか、三国志が複数の性を出す事を拒んだのか、(まあ前者なんですが)どうにもこうにも動かせず、vol.1から「まあいいや!」と、お芝居から退場願ったのでした。そして、vol.0のことはまあ半分忘れて残り3作品の製作を続けてきて、いざ最後の1作品を作ろう、となったとき、「vol.0で出て来た宏を無かった事にするのはもったいないぞ」と思ったのでした。
 おまけに、粥見を糜夫人(びふじん)という女性の登場人物の役回りにする時に出て来る、物語全体の問題点=女だらけで、どうやって子どもが産まれるの問題<劉備も糜夫人(劉備の妻)も甘夫人(かんふじん・劉備の妻であり劉禅の実母)もみーんな女だったら、劉禅はどうやって産まれるわけ?!あれれれ?>を抱えたままこの話は終わらせられないだろうと思ったのです。性別としての「男性」の必要性が出て来たわけです。

○主人公を殺したく無い
 そして、もうひとつは「粥見が劉禅の為に井戸に身を投げてめでたしめでたし、感動巨編!笑って泣ける三国志!」にしたくなかったからです。これは私の信じているところでもあるのですが、最後は笑いたいし、ドラマチックに仕立ててひどいことをごまかしたくないのです。
 主人公には、どんなひどい手を使っても元の世界に戻って欲しい。
 女は犠牲になれるのよ!母は強いでしょ!戦争は男の責任よ!というような女性賛美プロパガンダは「なんか違うなあ・・・私なんかがそんなものを書いてもいいんですかい?」と思うのです。
 自分の身を犠牲にして子どもを守ることもできるけれど、自分たちの目的の為に男を生贄にできるふてぶてしさも持っている。女同士のノリで「性別としての『男性』の必要性」の為に、軽いノリで弟を井戸に放り込むことができる。そういう姿の方が、私は本当だと思うのです。ひどいけれど。

 そうなんです。
 この「ユニット美人の三国志」は、vol.4まで観ないとわかりませんが、ひどい話だったのです。
 創作過程で「男キャストいらん!てなったけど、このままじゃ話終わらせられへんし、男キャストを呼び戻せ!」という、ひどさとも重なっています。
 宏は、そんなひどい女たち・三国志の世界に紛れ込んだひどい女たちの生贄になったのでした。

 う〜ん。ひどい。
 そうならないようにしたいものです。
 ・・・男も女もね!

 私たちの生きている世の中は、戦争中であれそうでない時であれ、なんだか生贄をいつも必要としているみたいです。自分が生贄になる時はすごくドラマチックに思うけれど、他人を生贄にするときはいつだって軽い気持ちで悪気なくやっている。そして、そういった営みの連続の末に私たちは居て、この先もその連続は続いていくんだろうと思います。でも、誰が生贄になるのかは変わるし、シフトしていってもいいんじゃないかな。例えば男が生贄になるのを女に変えてもいい。
 そして、いつかは自分が他の誰かの幸せの為の生贄になる日が来るんだろうと思います。

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さて、次回は蛇足的なまとめというか、三国志三国志言い続けてきた感想なんかを書いてこの連載を終わらせたいと思います。
今までありがとうございました!(まだ終わってないけど)