『あなたの知らない三国志の世界』第十七回「ユニット美人の三国志とはいったい何だったのか8」


 2012年の5月〜11月にかけて半年かけてやったユニット美人の三国志vol.0〜4。

 この連載では、せっかく半年かけて作ったんだからそのままにしておくのはもったいない。という省エネ精神から、作品について語っていこうと思います。自分で自分の作品解説なんて、どうなんだい、それなら芝居にするなよ…というようなことを書いていきますので、そういうのが嫌な人は読まない方が良いがと思います。

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その8:守ってあげたい1
それではいよいよ最終話、vol.4の解説に入ります。と、いうことは自動的にこのユニット美人の三国志全体の解説に入ることになるかと思うのですが・・・。みなさん、ついていっていますか?私はまさかこの連載まで半年続くことになるとは思わず、なかなか切れない三国志との縁と自分の文章の粗さにちょっとびっくりしたり傷ついたりしています(まあ、自分で延ばしてるだけやねんけど)。
それでは、おつきあいよろしくお願いいたします。

○誰かを救うということ
 vol.4では再び「命をかけて【この男】を救う」というvol.0から登場してきたモチーフに戻ります。
 vol.1では複雑な人生、vol.2では並外れた力を理解することの難しさ、vol.3で戦争を止めるのはなんなのか?と、どちらかというと脇道の方への興味が強かったのですが、最終話にてついに「誰かが誰かを救うこと」あるいは「他者を守ること」そのものに対して向かっていく作品になりました。

 ちなみに、各話の主人公粥見の失敗ぶりは以下のとおりです。
  vol.0 女同士のおしゃべりや諍いの方が楽しくなり失敗
  vol.1 三国志シミュレーションにはまってしまって失敗
  vol.2 尋常ではない強さを理解できずに、見捨てて失敗
  vol.3 「私やって誰かを救える」という気持ちの芽生えがある→気付くのが遅くなり失敗

 vol.0〜3まで4話かけて、ようやく「誰かを救う」ことの本質をつかみかけた粥見。「誰かを救ってもらっちゃこまる」=「この世界を続けたい」→「この世界で存分に力を使いたい」孔明に挑んでいくことになります。

 ところで、さんざん台詞でも出て来た「救う」というのはいったいどういうことを意味しているのでしょうか。
 みなさん、いろいろ考えられたかと思いますが、私は「なるべく長生きをする」ということだと捉えて作品を作っていました。
 いろんな文献の中では、劉禅が暗愚だと罵られています。たしかに三国志の世界観では、父親の功績を蔑ろにしたバカな人生をおくったことになるのかもしれません。しかし、現代に生きる私からみたら、関羽より、よっぽど幸せそうな死に方です。どんなにプライドを引き裂かれてストレスが溜まろうが英雄のお墓に入れなかろうが、ご飯や寝る場所の心配をしながら部下の命の抱えながら人を殺したり殺されたりする戦場で死ぬよりよっぽどましなのです。

 なので「英雄になる方が良い!」という三国志の世界観から救い出すこと。
 これが、この物語における「劉禅を救う」ということなのです。それは、「血を重視する」「先代の苦労に報いる」そういう世界と言いかえてもいいかもしれません。『三国志』を読んで私が違和感を感じたこと。「なぜ漢王朝の復興?」ということ。「ただの桃園の誓い三義兄弟の友情物語」でないからこそ『三国志』はおもしろいのですが、その、面白さの中にある悲劇的な世代交代の際に生じる閉塞感。

 粥見はvol.4の前半はそれがわからず、「劉禅を救う」=「劉禅で中国統一ってことやな!」と、三国志世界のセオリーに乗っ取って考えていますが、後半でようやくその定石自体が間違いであるということに気がつくのです。

 次回は「なぜ粥見は定石が間違いだということに気付けたのか?」ということについてお話ししたいと思います。