「紙本明子のタイトルをとるまで」その7

My Little Letter 〜あの頃の君へ〜(7)


いつもの時間に起きて、顔を洗い、歯磨きをして、髭を剃る。
いつものスーツに袖を通して、食パンを食べながら、朝のニュースを見る。
今日も離党する議員のニュース。
離党は金銭トラブル、らしい。
いつものニュース。

娘たちが喧嘩をしながら、洗面所の鏡を取り合っているのを傍目に、靴を履く。
「いってらっしゃい。」という妻の声。
「一緒に行くー!」という娘たちの声。

いつもの朝。

「いってきます。」
「いってきまーす!」

初夏を感じる日差し。
駅まで娘たちと一緒に通うこの道。


たね「お父さん、今日何時にかえってくるん?」

「いつもと同じくらいや。」

さなえ「えっ じゃあさ、駅まで迎えに行く!」

「ん?なんか怪しいな。なんかあるやろ。」

さなえ「え?。なんもないけど、」

「言いなさい。」

たね「ツタヤで西野カナのCD借りたい。」
さなえ「私は、海月姫のDVD」

「はいはい了解。じゃ、7時過ぎくらいな。」

たね、さなえ「やった!じゃ、いってきまーす!」

改札を抜ける。
地域の行事や企画会議、娘たちの受験 色々あるけれど、
濃い青空に、白い雲。
僕の子どもの頃と何も変わらない夏の空が、変わらない日々を受け入れてくれるようだ。
なんてことを考えながら、満員電車に揺られる50分。

僕は昔から、頑張るのが得意じゃない。無理をするのが好きじゃない。
仕事でも家事でも子育ても趣味も。
妻はそんな僕をつまらない人間とおもってるだろうか。
なんてことを考えながら出社する。


「篠田さん、ちょっと!」

オフィスに入った途端、事務の豊見さんに呼ばれた。
不思議だ。
声であまり良い知らせでないことがすぐにわかる。
僕の学生の頃の研究テーマは、「言語の成り立ちとエモーションコントロール」だった。
人はどのような感情や心理状況に、その言葉、また言葉にまでいかない「音」を使うか。
というようなことを研究していた。

「篠田さん、今、娘さんの学校から電話があって、、娘さんが事故に。」

「あ、、、、わかりました。」

「**病院に運ばれたそうです。急いでいってあげてください。」

「はい、ありがとうございます。じゃ、あの、失礼します。」

呼び止められてから、5秒の間に心の準備ができていたのか、
僕は、かなり冷静に状況を把握することができた。
大学の研究のおかげもある。
そして無理をするのが嫌いな僕は、だいたいのことを客観的にとらえようとする癖もついているので、相当に冷静に行動をとることができたと思う。

「豊見さん!すみません、あの、一つだけ確認したいんですけども、どっちですか?」

「え?」

「さなえか、たねか、どっちですか?どっちもですか!?」

「ごめんなさい、わからないです。通学中に車が歩道に突っ込んできてとおっしゃっていて、あの、」

「あ、すみません!病院に行ってきます。」

「あの、篠田さん、がんばって…」


運動会の徒競走でも、リコーダーのテストでも、ドッチボール大会でも、
柔道の試合でも、受験も、初めて付き合った彼女にも、大学の研究も、就職活動も、
頑張らない程度にやってきた。
無理してがんばってダメだった時が辛いから。
頑張らなくってダメだったら、頑張らなかったからという理由があるから。
僕は頑張るのが、苦手なんだ。


病院につくと、妻と義母が手術室の前にいた。

「あなた!ああああ〜〜〜〜〜」

泣き崩れる妻。

「義母さん、」

「さなえちゃんがね、手術受けてるの、命に別状はないって、大丈夫だって先生が」

「はああ、そうですか、よかった。。。。たねは今どこにおるんですか?」


「たねちゃんは_ね、、、、章雄さん、たねちゃんはね、、あかんかったんよ。」

「…、…………ああ、」

「車が、ぶつかってきてね、もう救急車きた時には、あかんかったみたいなんよ、もうね、かわいそうに、ほんともう、かわいそうで」



クーラーの効いた暗い廊下
太陽の光も、青い空も、白い雲も見えない。
汗をかいたシャツがびっしゃりと肌にくっついて、
額から汗が流れて顎に溜まる。

泣き崩れている妻
どんどん小さくなっていく義母
さなえに何て言おうか。

僕の癖は客観的に状況をとらえようとすることだ。
エモーションコントロールには言葉をコントロールすることが重要だ。

こういう時は、大きな声で叫んではいけないんだ。
感情が乱れるからだ。
腹の底からわきがってくる、なんかよくわからないゴロゴロとしたドロドロとした塊を、僕は必死で抑えた。
口の中に血の味がする。

さなえは1週間入院することになった。
僕は唇を2針縫った。