『道徳の授業』


道徳の授業の成果として時に児童生徒は暗黙的に
「内容項目についてどの様に応えれば(リアクションすれば)、その場での評価(例えば先生、例えば友だち、例えば社会)が上がるのか考えよう」
ということを迫られている場面がおとずれる瞬間を想像する。
能力を上げさせたい、成長させたい、気付かせたい、というだれかの思惑に対してのリアクションを児童生徒が本人も気づかず内に取ってしまう場面も多いのではないか。
そしてそれは社会における児童生徒の安全を維持をするためには無くしてはいけない大切な部分であろう。
ただ道徳の時間が35ある中においては、
「内容項目について自分の中で起こったリアクションと他者のリアクションとの波紋が観察でき、内省できる時間」
という場面もきっとあるのだろう。
それを実現可能にするためには評価という軸をどのように忘れるべきか、放棄すべきか、であったとしてもいずれにせよその場での安全性、責任の所在などが問われるので難しそうだ。

おそらく今は「良きアクション」と言う事を定義しにくくなってきているのだろう。
これこそが良いアクション、良い状態という正しい価値を今、明確に示す事は難しいように思う。
ゆえに探求もアクティブラーニングもおそらくは個々のリアクションを求めて出しているような気がする。
このような出来事に対してこのようなリアクションをしなければならない、というのは人間の役割ではなくおそらく今後はテクノロジーの役割になるのではないか。
完璧は人間の達成されるべき状態ではなく、あくまで目指し続けるしかない。
リアクションとはあらかじめ想定されているものではなく、相対的な関係性の中で起こる現象であろう。それを体験と呼ぶのではないか。
体験をデザインする事はおそらく演劇的な手法の一つであろう。


【今後の出演予定】
サファリ・P 第9回公演『透き間』
愛知公演 2023年5月14日@メニコンシアターAoi
大阪公演 2023年5月20日〜21日@インディペンデントシアター2nd