『考えようによっては明日だ』

生活が変わっていきます。
環境も変わっていきます。
例えば。
それまではタッパーに詰めた御飯の上に茶色いおかずを乗せるだけのシンプルなお弁当生活だったのですが、
新たなお弁当箱を購入してからというもの、私はおかずの「種類」を欲するようになってしまったのです。

それまでの主食と主菜のみのお弁当にも充分な満足感を得ていたはずなのに、お弁当の中身に10品目以上が並ぶ現状にいいようのない豊かさを感じているのです。
不思議です。
「豊かさ」に魅力を感じていなかった私が、その豊かさに幸せを感じているのです。
「それはまやかしだ」
と、私の家の観葉植物がつぶやきます。
3ヶ月前に購入したものです。
これも私の中にある「豊かさ」が欲したもので、ここ何ヶ月かの私の変化の象徴的存在なのかもしれません。

観葉植物自体がまやかしであると信じていた私が、いまや観葉植物に喋りかけられているのです。
客観的にはまやかしであろうことは容易くできるのですが、主観的には事実であるというこの現象。

そこにこそ「興奮」があり、それを求めていたはずなのに。
そこに恐怖の気配を感じ始めている私の中で、
もはや何かが終わり、
何かが始まっている のです。

お風呂で一人、
海苔をお尻に貼り付けても笑えません。
嗚咽が漏れるのが今の生活です。

話しかけられているのではなく、
そんな気がするだけ。
そんな気がするだけ。
そうつぶやいて、
何だったら隣人にもそのように話しかけ、
私はやりすごしたいのです。
いらないのです、そんなものは