「君の行く道は はてしなく遠い」

ぼくは思いきって、母親のスカートをはいてみることにしたのです。
母親がパートにいくので、昼過ぎから夕方にかけて、家の中にぼく以外の誰もいなくなる瞬間があるのです。
ぼくはそこの時間を狙い、タンスの中から母親のスカートをひっぱりだしました。
そして…
ああ。
はいてみたら、それはやっぱり明らかに良い感じだったのです。
スカートをはいて大黒摩季の歌を唄ってみたら、思いのほか歌の中の女性の人物に感情移入する事ができたのです。
これは、今までになかったことです。
気持ち云々以前に、まずは見た目から入っていくという、ぼくの選択肢は間違ってはいなかったのです。
それにはいてみなければわからなかった、予想外の効果がスカートにはあったのです。
そう。
ジーパンをはいている時には決して味わえぬ、今のこのどこか危うい、しかし何か心の中が常に泡立っているような不思議な、この興奮にも似た感情?が、私にマジックをかけてくれたのではないかと思うのです。
ぼくは、いつもより大黒摩季の歌を良く唄えたのでした。
「歌ってのはさ、上手い下手じゃなくて、良いか悪いかなんだよね」
と、歌手の業界に詳しいとされる先輩は、ぼくに言います。
ぼくはその言葉を聞いて、あ、その通りだと胸うつものがあったのです。
だから母親のスカートを隠れてはくぐらい、なんでもないのです。
ぼくは、歌に人生を賭けているのですから、大黒摩季の歌の修得のためならば…くそっ、母親の下着だって着用するぐらいやぶさかではないのです。
そしてぼくは、歌の道を突き進むことによって何かを得るためには、何かを失うこともある、という事をこの時身をもって実感したのでした。