「ハミガキ」

試しにこのハミガキ粉を1本1万8千円だと思う事にしました。
いつもあまり何も考えずにハミガキをしていますので、ちょっと趣向を変えてみる事にしたのです。
実際、何十年も歯を磨き続けてきて、私は未だハミガキに何の興奮もおぼえた事がないのです。ただもう無感情に日々シコシコと磨いていただけなのです。
それのどこが悪いんだという人もいらっしゃるかもしれません。
それがハミガキだ、と納得していらっしゃる方もたくさんいるでしょう。
しかし私は嫌なんです。
そんなハミガキでは本当の磨きができないのではないでしょうか。
そんな惰性な気持ちが歯にも伝わるのではないかと思ってしまうのです。
なので私は、思い込む事にしました。
1本、1万8千円です。
自分で言い出しておいてなんですが、そんな高いハミガキ粉は見た事がありません。
大体私が普段使っているのは100円均一で購入したものでしかないのです。
値段的に180倍であります、皆さん。
「今日から180倍豪華になる」
そんなこと、一体どれほどの人間が経験できるのでしょうか。
出世しすぎにも程があります。
家賃が5万円の部屋から900万円の部屋に引っ越すようなものです。
これはもはや出世の域を越えてアメリカンドリームです。
もうちょっとでマイケルジャクソンです。
そう考えると緊張してきてしまいました。
気を落ち着かせる為に洗面所の前で軽く深呼吸をします。
そして、いよいよです。
歯ブラシをとって、ハミガキ粉をとります。
1本、1万8千円です。
…緊張が高まってきました。
同時におしっこもしたくなってきましたが、ハミガキ前におしっこをするのは何か嫌なものです。
我慢です。
さぁ、1万8千円です。
負けてはいけない、と思いながらしかしやはりその数字はあまりにも大きすぎ、気がつけばハミガキ粉をつけず水だけでみがいて、最低限口の中をキレイにしてしまいました。
もう一体何に気を使っているのか、自分でもさっぱりわかりません。
「とりみだすな」
自分に言い聞かせます。
ハミガキ粉を、ゆっくりと歯ブラシの上にのっけてゆきます。
こういう高級なものはあまり大量にのっけてはいけないような気がするので、いつもの量よりかなり少なめです。高級料亭の料理にしても、お品書きにごはん大盛り自由なんて書いてあればもう雰囲気ぶち壊しになってしまうのと同じです。
高級は少量。
いえ、控え目なのが上品なのです。
歯ブラシの上に乗っているハミガキ粉を見ているとやはり心なしかツブが細やかな気がします。
香りは…ハッカです。
飾り気のないハッカの匂いです。
なにやら懐かしい、1万円8千円とは思えないほど素っ気ない香りです。
そして、いよいよそれを口に持っていきます。
口の中はさきほどすすいだばかりだというのに、もうカラカラです。
みがきます。
もう無我夢中です。
心臓もドキドキしています。
ダメです。
何か気分も悪くなってきました。
それでも普段使っているやつとの違いを感じなければ、と必死に集中します。
何といっても1万8千円です。
すると、ハッキリといつもと違う点がわかりました。
薄いのです。
まるで、水みたいというか、つけてないみたいなのです。
高級な日本酒は水に似る、という言葉をそういえば耳にした事があります。
なるほど。