『黒木陽子の百人一首を斬る!』
(略して『陽子の百人斬り!』)
【第九十六回】

【原文】
花さそふ嵐の庭の雪ならで
ふりゆくものはわが身なりけり
[入道前大政大臣]

【読み】
はなさそうあらしのにわのゆきならで
ふりゆくものはわがみなりけり

【意味】
嵐が花を誘って庭に花びらを散りしき、まるで雪のようだが、降りゆく(古りゆく)ものは花ではなくて私の身。こんなに年をとってしまっているのだ。

【斬る!】
おっ。
No.9の小野小町と同じ花が枯れる→自分も老いるパターンやね。

ちなみに・・・
ーNo.9ーーーー
花の色は うつりにけりな いたづらに
我が身世にふる ながめせしまに
[小野小町]
美しい花の色は、色あせてしまった。この長雨が降っている間に。
それと同じように、私が物思いにふけっている間に、私の若さも過去のものとなってしまった。
ーーーーーー

ほうほうなるほど。
百人一首を5年間うだうだと続けて来た私にはわかる。
この二つの歌の違いが!!

ばばーん。

小野小町の歌は、どっちかっていうと【ツツジ】ぽい感じ。
No.9のところでも書いたけれど、室内っぽい感じ。
わりと長めの時間を感じさせる感じ。長雨な感じ。
じくじくした感じ。

それにくらべて、こちらの大臣はんの歌は、【桜】タイプ。
おもいっきり外な感じ。
わりと短めの時間を感じさせる感じ。春の突風な感じ。
さわやかな感じ。

両方、「人間いつまでも若くいられないよね。ああ〜あ。」という感じを歌っているけれども、
かなり違いますなぁ〜。
ちなみに、No.9小野小町と今回の歌、300年くらい時代の開きがあります。(この歌は鎌倉時代に読まれた)
300年の間に、貴族社会から武家社会へと変化したわけですが、
その変化が良く出ているではありませんか。

留まる雨の中物思う文化から、
流れる風の中で自分を発見する文化へ!

中世社会、発見!!

・・・。
言うていること、わかりますか?
う〜ん。
私が映像畑の人間ならば、この違いをお伝えできたのに。

悲しいかな、大学でろくに勉強せず、百人一首をうだうだと続けてきただけの私には、
鑑賞能力はちょっぴり向上したけれど、説明能力はちっとも向上しちゃいないようです。

くそ〜。
この鑑賞能力の向上をお伝えしたいぜ。

ーーーーーーーーー
No.9の歌:
30代家事手伝い、花子。ひきこもっているうちに、気付けば両親の背中がかなり丸くなっていた。ひきこもる前の自分を思い出すことが多いです。

この歌:
30代派遣社員、恭子。働く毎日。職場では、同い歳の芸能人が老けたというウワサ話。あれ?ってことは自分もかノ。あ〜あ。
ーーーーーーーーー
そんな感じやね!
(より伝わりにくくなったか?まあいいや。)

よし。
あと4回で終わりだ。
小野小町の歌をやってるときは、20代だったのに。
うだうだしてる間に、もうすぐ32歳だね〜。
(これはNo.9的やね。)

(現代語訳・作者解説は、Webサイト小倉百人一首さん http://www.watarase.ne.jp/hyakunin/から引用しました。)
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