『黒木陽子の百人一首を斬る!』
(略して『陽子の百人斬り!』)

【第二十三回】

【原文】
月見ればちぢに物こそ悲しけれ
我が身一つの秋にはあらねど
[大江千里]

【読み】
(つきみればちぢにものこそかなしけれ
わがみひとつのあきにはあらねど)

【通釈】
空にかかる月を見ると、いろいろと限りもなく物が悲しく感じられることだ。私一人をこのように悲しませるためにやって来た秋ではないのだけれども。

【ふまえ】
燕子楼の中で、霜ふる月の夜に座していると、秋の季節がただ自分一人の為に長く続いているように思われてくる。(白楽天の漢詩)

【斬り!】
♪かっこわるい振られ方〜
二度と君にあわない〜
大事なことはいつだって〜♪

で、おなじみの、大江千里。ではなく。

この歌は、白楽天の漢詩を【ふまえ】ているわけです。
この【ふまえ】について、大学で初めて学んだ私は(遅いのか?まあいいや。)、
「そうだったのか!!」と、目から鱗がぽろぽろと落ちたわけです。

笑いの世界では、みなさんお馴染みの「パロディ」ですね。

え〜っと、それ以外では・・・オマージュっていうの?引用?大学でよく学ばなかった私には語彙が無いので、【ふまえ】としておきました。

ちょっと【ふまえ】を入れると、ちょっとアカデミックな感じがいたします。知っている人が見ると、ちょっとお得感があります。そして、その作者のバックグラウンドを垣間見える気がして、作品により深みが増します。他人の記憶の幅を拝借するわけですよね。

岡崎京子の漫画の中に、大嶋弓子のコマが出てくる。
そんな感じです。
(ほらね。「ああ、黒木さんは岡崎京子とか大島弓子読んでるのね。」「あ、あのコマね!知ってる知ってる!」という方と、「誰?知らん」「???」という方とでは、このどうでもいい文章を読むのも大違い。)


しかし。この【ふまえ】は難しい。さじ加減を間違えると、【パクリ】になってしまいます。
ジェルバーキン(?やっけ?バーキンの形で半透明のゴム製の安いバックがちょっと前に流行りましたよね?エルメスから訴えられたとかなんとか。)なんか、そうですね。【ふまえ】たつもりが【パクリ】になっちゃった。みたいな。
そして、誰も知らないことを【ふまえ】ても、あかん。
そのさじ加減がこれまた難しい。

しかし、演劇でも映画でもなんでも、
【ふまえ】ばかりの作品って面白く無い。
しかも【ふまえ】がその作品のキーポイントになっていて、それを知らないともうお手上げ状態だと、もう大変。「勉強不足ですみません・・・」とすごすごと引き返す時の、あの悲しさ。
チラシに「この本とこの本を読んでくるように。」って書いていたらいいのに。

知ってても知らなくても楽しめる。
知っていたらもっと楽しめる。
それがよいのではと。

しかし、過去の積み重ねなくして発展無し。
自分一人で作り出す世界には、限度があるからね。
う〜ん。そこが難しいところね。

この歌は、そんな歌です。
「ちぢに」あたりが素敵。
でも何より、大江千里という名前が、この歌をよりいっそう親しみ深いものにしているのでは。

(現代語訳は、旺文社 古語辞典[改訂新版]から引用しました。)


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