『黒木陽子の百人一首を斬る!』
(略して『陽子の百人斬り!』)
【第九回】
花の色は うつりにけりな いたづらに
我が身世にふる ながめせしまに
[小野小町]
●読み
(はなのいろはうつりにけりないたずらに
わがみよにふるながめせしまに)
●意味
桜の(美しい)色はあせてちりそうになったなあ。私が降りつづく長雨に閉じこめられて、空しくもの思いにふけっている間に。それと同じように、私の美しい容色もおとろえてしまったよ。この世の恋やさまざまの事柄で、もの思いにふけっている間に。
はい。私の手元には、美容雑誌『美的8月号』と、絵で読む世界文化史『美女の歴史』が。
後者を参考に「美女」の歴史(西洋の)をおおまかに言いますと、古代は、美容術と化粧術という概念がはっきりわけられていまして、化粧術の方は、おおまかに言いますと、悪魔の技術として軽蔑されていたそうです。一般女性は家庭にいたため、まあそんな必要なかったわけです。中世にはいりますと、さらにキリスト教的な「女性性=悪魔のささやき」みたいになりまして、「美女=処女=未熟な少女の美しさ」、みたいな感じがもてはやされましたのです。その中でもやっぱり女性は体に悪い化粧品を使い続け、肌はボロボロ、健康もボロボロ、っちゅうかんじだったみたいです。その後、ルネサンスに入り、「人間の美しさ」みたいなことがもてはやされ、ちょっと美人の年齢はあがります。「成熟した女性」がよい、とされます。その中でもやっぱり女性は、美しいとされる金髪に髪の毛を染めたりノストラダムスが書いた化粧本を読んだりして研究熱心です。印刷技術の発展、というのが、より一層化粧術をひろめたわけです。そのまた後に、フランス革命などが起こりまして、有害な化粧品はやめよう、とか、女性の社会進出だとか、病人チックな青白い顔がいいだとか、女優が美容法を宣伝したり、美女は、個人の努力で作られるものみたいな感じで、広まっていったのでございます。コルセットもとっぱらわれ、顔だけではなく体も、自分の美は自分の力で作り出すのだ!という感じになっております。
そして現代。化粧法も頑張ってはおりますが、いっそう声高になっているのは美容法の方です。美人=素肌の美しさ=アンチエイジングです。素肌が元気ならば、気持ちも元気。「ファンデーションは使ってません」の時代です。体も顔もやっぱり長谷川理恵ってうらやましいよねっちゅう時代です。
(こういう、歴史や本の概要を書くのはすごく苦手だ。わかりにくかったらごめんなさい。)
前者の美容雑誌『美的』を眺めてみましても、化粧法はちょっとだけ。他は化粧水の使い方だとか、体にいい食べ物だとか、体操だとか、ツボだとかそんなんばっかりです。広告はもっと顕著に「みずみずしさは、もう止まらない。」だとかいった肌ケア関連商品ばっかりです。
で、まぁ、何が言いたいのかといいますと。
「しわくちゃでお肌ボロボロの女って、渋くてイイよね。」という時代は一切無い!ということです。
「ちょい悪オバサン」の時代はないのだ!
そして、時代はいっそう「アンチエイジング」になっているのだ!ということ。
ぼんやり悩んで引きこもっていたら、色恋はいつの間にかとおり過ぎ、「くすみ・しわ・たるみ」に襲われていたことよ・・・。
がーん。なんてこと。
女子に、ひきこもっている暇はないのだ!
そうよ、そうなのね、小町ちゃん!
小町ちゃんといえば、もっと気の利いた恋の歌なんかをいっぱい歌っているはず。(あんまりよう知らんけど。「蜻蛉日記」でお馴染みの、じめじめ女藤原道綱母と比較されていたのを中学時代にテレビで見た。)
「色恋なんかで身をやつすより、仏道修行に励めば良かった」という解釈もあるかもしれないけれど、私は、彼女なりの美容応援歌、として受け取りたい。
「女はひきこもるな!」
さて次回は・・・
【第十番:これやこの行くも帰るも別れては・・・】
はいッ!次回は蝉丸トンネルでお馴染み。蝉丸です。逢阪です逢阪みえこです。『永遠の野原』です。いやん!女子しかわからんや〜ん。(なんのこっちゃ。)
(現代語訳は、中央図書「古典の学習【小倉百人一首】」宗政五十緒著」から引用しました。)
(他参考文献:小学館「美的8月号」/創元社「知の再発見双書82『美女の歴史』」ドミニク・パケ著)
そんな黒木陽子が出演するのは・・

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